結婚もキャリアも自由に選べるから苦しい〜「実力主義」社会の困難さ(第2回)
佐々木俊尚現在の視点
封建的な身分制度や家柄などで人間を判断する時代はとうに終わり、20世紀後半には実力主義の時代がやってきました。しかしこの実力主義が過剰に進んだ結果、いまや新たな格差が逆に生じてしまっています。たとえば表現力やコミュニケーション能力などの対人能力の高い人ばかりが高く評価され、自分が内面に持っているものをうまく表現できない人は、決して評価されない。この悩ましい問題について論考しました。
ポスト近代には恋愛も結婚も職業選択の自由も、すべて抑圧になった〜〜現代社会における「実力主義」の困難さを考える(第2回)
いま日本に求められているのは、新しい社会観です。2000年代には過度な実力主義ばかりがはびこり、「このジャングルで生き抜け」人生哲学が流行しました。これはあまりにも、厳しい社会です。かといって時間を逆回転させて、サザエさんやクレヨンしんちゃんのような昭和の古いライフスタイルに戻っていくのも無理でしょう。今さら専業主婦の存在を前提とした核家族に戻れるわけもありません。昭和への回帰ではない、新しい社会観。それは実力主義に過度に進みすぎずに、しかし同時にみんなが「居場所」を見つけられるような方向だとわたしは考えています。
さて、本メルマガではその結論にすぐには入りません。いったん回り道して、ロジックを積み重ねつつゴールに向かっていきましょう。
実力主義はメリトクラシーとも呼ばれますが、要するに個人の能力によってその地位や収入が決まるべきであるという考え方です。これは近代が始まった段階では、意味のある考えだったのです。なぜなら近代以前の世界では、地位や収入は自分がどういう境遇に生まれてくるのかによって決まっていた階級社会だったから。どんなに能力があっても、下層階級の人は下層階級のままだった。インドのカースト制度なんかが典型的ですが、日本でも江戸時代の士農工商があり、その後も太平洋戦争前まではけっこうな階級社会でした。恋愛さえもが自由ではなく、親の決めた相手と結婚するのも普通でした。
だから近代になって工業化が進み、富が分配されて社会がフラットになっていく中で、階級が壊されて自分の実力でのし上がれるようになったことは、喜ばしい変化だったのです。しかし自由というのは、往々にして慣れてしまうと喜びではなくなり、逆に抑圧に転じてしまうことも多い。
以前、「お見合い結婚は是か非か」という議論をトークセッションの場で行ったことがあります。お見合い結婚を肯定なんてすると、「まともに交際もせずに親が用意した相手とちょっと会っただけで結婚するなんて!」と怒られそうですが、本当にそうなのか。