NetflixにSpotify、グローバル化するコンテンツ市場で生き残るために必要なこと
佐々木俊尚現在の視点
グローバリゼーションの文化への影響がいまだ誤解されていることが多いのですが、その意義をあらためて解説しています。基本はこの概念でしょう。「グローバル化したシステムでは、情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていく」
グローバルプラットフォームは文化をどう変えるのか(後編)
さて、グローバリゼーションに対してはかねてから「文化の多様性が失われる」という批判が絶えません。グローバルなプラットフォームが普及していけば、民族性やそれぞれの国の独自性が失われるんじゃないかという批判です。たとえばハリウッド映画やアメリカの音楽やマクドナルドやGAPのファッションが世界を席巻したように。世界中の若者がアメリカ発の映画や音楽にどっぷりと浸り、GAPのジーンズをはいて、マクドナルドのハンバーガーを食べる。いわゆる文化帝国主義的なソフトパワーによって、骨の髄までアメリカの帝国主義に浸蝕されてしまう新たな植民地が生まれるという考え方です。
たとえばマクドナルドのハンバーガーのようなファストフードは食のグローバリゼーションの典型で、食材から作り方、接客にいたるまで世界レベルで複製されていき、すべてをマニュアル化することによって効率的な生産・消費を可能にしてしまった。これこそがグローバリゼーション。でも一方で、本来の食というのは特定の場所(国、地域)と時間と結合した固有性を持っています。それはたとえば日本では、地元でとれる食材は身体に良いという「身土不二」という仏教的な考え方にも表れています。「地産地消」「旬産旬消」ということばもありますね。あるいはイタリアから始まった「スローフード」という運動もあります。その土地の伝統的な食文化や食材を見直していこうというものです。
いずれも、その土地とその時期の旬にとれた食材は、その時間と空間の中でしか生まれない唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ、食と人の良い関係は成り立つという考え方。つまりはそこに、「一回性」が存在するわけです。
一回性とは何か。一期一会、というベタな言葉で言い換えてもいいかもしれません。つまりは何度となく再現されることなく、その場限りの貴重な出会いであるということ。一回性があるがゆえに人と人の出会いは素晴らしく、そして人と食材の出会いも素晴らしい。その土地で採れた旬の食材を、「いまこの瞬間にしか出会えない」ということに感謝しながら、おしいただく。それは日本の食文化の根幹にひそんでいる美学でもあります。
これは、大量生産・大量販売を行い、消費者を「数」としてしか見ないマニュアル化されたファストフードとは相容れない。マクドナルドの世界では、希少性や消費者との「一回性」などどこにも存在しなくて、どの国にいようが、どんな時間に店に入ろうが、常に同じ状態の同じ味のハンバーガーが提供されていく。そこには食材がどこで採れたのか、いつ採れたのかといった情報はすべて奪われていて、それを食べる客との間に緊張感など何も存在しない。ハンバーガーを食べる客は「この一回だけの出会い」などもちろん考えておらず、「昨日も今日も、そして明日も同じ味のハンバーガーがマクドナルドに来れば食べられるんだ」と再現性を信じている。店の側もそれを保証している、というわけです。
しかしながら、
<グローバリゼーション=一回性を否定したファストフード的文化>
という考え方はあまりにもステレオタイプに過ぎますし、グローバリゼーションがインターネット上に生み出してきている新しいシステムにあまりにも無理解と言わざるを得ません。
なぜなら従来の文脈で語られるようなグローバリゼーションによる文化帝国主義が成立するためには、実はマスメディア的な情報の独占が絶対に必要だからです。情報の供給が絞られ、その細い情報流路に沿って、帝国主義的な文化が集中豪雨的に流し込まれる仕組みが必要なのです。
たとえばひとつ例を挙げてみると、日本の戦後文化がアメリカ植民地化していったのは、マスメディアでアメリカ的な情報がざあざあと流し込まれたためでした。テレビのCMも雑誌もこぞってアメリカ文化の素晴らしさを伝え、アメリカへの憧れをかき立てました。
たとえばコカコーラの日本のCMの変遷を見てみると、1960年代ぐらいまでは日本人の出演者が中心ですが、海外旅行が比較的簡単にできるようになった1970年代には海外ロケが急増し、BGMも洋楽が多用されるようになります。そして登場するモデルはだんだんと日本人からハーフっぽい顔立ちの人に変わっていきます。
1978年に登場する「Come on in. Coke」シリーズになると、完全海外ロケで登場モデルは全員白人。最後に流れる日本語ナレーションを聞かなければ、もうどこに国の広告やらさっぱりわかりません。
この時期は、世論調査をすると国民の9割以上が「自分は中流だ」と答えるようになり、国民の中流意識が定着したと考えられるようになったころです。すなわち総中流社会の完成期。そうした時代と、アメリカの文化帝国主義が頂点に達した時代が重なっているというのは、何とも興味深いシンクロニシティ(同時性)ではないでしょうか。
コカコーラのCMは80年代に入ると日本に回帰していって、70年代ほどの「バタ臭さ」(これも死語ですが)はだんだん消えて行きます。日本が「ノーと言える日本」などといって自信を持ち始めたのとリンクしていたのかもしれません。70年代までのような、「アメリカの文化が日本の文化よりも上」という意識は80年代後半以降に急速に薄れていくのです。
コカコーラのテレビCMでも主要な登場人物は日本人。逆に日本人の若者がアメリカに出かけていって、コカコーラ片手にロサンゼルスを闊歩したり、オフロードバイクで荒野を疾走するような映像も現れてきます。アメリカの土地を買い漁り、アメリカへと資本進出しようとした当時の日本経済を象徴していたというのは、うがちすぎでしょうか。
しかしながら経済は90年代以降停滞し、2010年には「第二の経済大国」の座も中国に奪われ、われわれ日本人がアメリカに追いつこうと必死になる、というような構図そのものが崩れてしまいました。
そしてマスメディアの崩壊も、急速に進んでいます。マスメディアによって情報の供給が絞られて飢餓感をうえつけられるような時代はすでに終わり、ネットから膨大な情報が流れ込んでくる世界がやってきました。そしてそれら膨大な情報は、ブログやSNS、Twitter、YouTube、Ustream、iTunesといったインターネットのグローバルなプラットフォームの上で流通しています。
そしてこうしたプラットフォーム上でのコンテンツ発信にはほとんどコストがかからないため、情報供給のボトルネックを握った先進国だけが情報を支配するというような構図は、成立しにくくなってきています。それどころか、プラットフォーム上ではローカルな情報の重要性が逆に増していくかもしれません。
広告のクリエイティブディレクターとして世界的に有名なアレクサンダー・ゲルマンは、「ポストグローバル」というコンセプトを提唱しています。彼は『アレクサンダー・ゲルマン:ポストグローバル』(グローバリー・ローカル・メディア編、PHP)という書籍の中で、次のようにグローバリゼーションが文化的に「反転」する可能性を示唆しています。
「一人のアーティストが打ち出すスタイルが、さまざまな異なる文化の分身として受け入れられるのは、一体どういうことなのだろうか。文化を越えて人間の根源に内在する魂にメッセージが響いているからほかならないのではと思う。魂に響くものは、どんな文化とも共鳴し合うことができる。真のグローバルというのは、決して規模の大きさを指すのではなく、人間の根源的な部分に相通じることができるかが問われているのではないかと思う」
つまり、グローバル化したシステムでは、情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていくのだということです。
歴史や地理、文化の多様性を受け入れることによって、いくつものシステムやモデルが共存し、進化し、たがいに影響し合って、そして分裂し、融合していくような、そういうあらたな文化の世界がひらかれる。つまりグローバルプラットフォームの上で情報が流れるということは、多様性がそこに内包され、自立・共存・発展するローカル文化の集合体をうみだしていくことになるということなのです。
私はプラットフォームの定義を以下のように説明しています。