マスメディア言論が劣化した本当の原因とは?(前編)〜〜「弱者に憑依」する安直な報道姿勢の問題点2011.10.3
佐々木俊尚現在の視点
わたしが2012年の著書『当事者の時代』で書いた弱者を勝手に代弁する「マイノリティ憑依」という概念について解説しています。これは決して弱者をないがしろにするというものではありません(拙著を読みもしないでそういう罵倒をしている人をときどき見かけますが)。逆に勝手に代弁されてしまうことによって、弱者の本来の立ち位置やことばが奪われてしまうという問題を指摘しています。
当事者主義・試論(中編)
たいていのマスメディアは「上から目線」で社会を批評しています。つまり当事者ではなく、当事者から一歩外れた第三者に視点を起き、その第三者視点から社会を見るということを行っているわけです。
この第三者視点というのはいったい何でしょうか? そもそも第三者って誰? 神?
いま私は「マスメディア言論はなぜ劣化したのか(仮題)」という本を書いているのですが、この本の主題のひとつは「メディアは いったい誰の視点で報道しているのか」という疑問です。
そもそも「市民目線」「市民感覚」と言いながら、マスメディアの言う「市民」というのがリアルには存在しない。私の新聞記者時代の経験から言えば、記者たちの考える「市民」というのは次のような幻想の存在です。「権力に押しつぶされ、弱々しく、無辜で無垢な庶民」。どこか遠くの田舎に住んでいる農家のおばあさん、のようなイメージでしょうか。
しかし庶民は決して無垢ではないし、仮にそういう無垢な庶民がいたとしても、それら庶民がマスメディアの思い描いている通りのことを考えてくれるとは限らない。たとえば朝日毎日的な言論空間の中では、市民感覚はイコール「護憲」「反戦」「反原発」「死刑反対」「環境保護」といったステレオタイプ的な左翼の言論とつながっています。でも実際に世論調査をしてみれば、日本人の多くが憲法改正に前向きで、自衛隊も容認し、原発は即時廃止を求めているわけではない・・という結果があからさまに出てしまいます。
そこでマスメディアは自らが依拠する「市民」を代弁させるために、市民運動や平和団体などの言論を借ります。つまり誰か死刑囚が死刑を執行されれば「市民運動が死刑廃止を訴え」、地球のどこかで戦争が起きると「平和団体の市民が反戦を訴える」というような報道をするわけです。しかしそうした運動体を担う人たちというのは、社会の大勢の中で見ればどちらかといえばマイノリティであり、なおかつ決して無辜でも無垢でもない。
なお念のために言っておくと、これは私がそうした市民運動を非難しているということではありません。彼らは記者の言われるがままに動くような人たちではなく、記者と対等に議論し、メディア戦略によって巧妙にマスメディアさえもコントロールしてしまう強靭な組織であって、メディアが勝手にイメージしている「無辜の庶民」からはほど遠いということなのです。このあたりはグリーンピースなんかをイメージすればわかりやすいかもしれません。
だからマスメディアは実際には存在しない「無辜の庶民」を代弁するため、決して無辜の庶民などではない市民運動にみずからを代弁させるという、二重にトリッキーなことを行っているわけです。言い方を変えれば、メディアは無辜の庶民に憑依し、そして自らを市民運動に憑依させている。市民運動の記事の皮を一枚めくればそこには隠れたマスメディアが姿を露わにし、さらに皮をもう一枚めくると幻想の無辜の庶民が中から現れてくる。そういう手品です。
なぜそんなことをわざわざしているのかと言えば、それによって自らの絶対安全圏を補強できるからです。
もう少し説明してみましょう。構図をわかりやすくするために、「絶対的な悪の権力」と「絶対的弱者」という二つの存在がこの世にあると考えてみてください。