大震災とSNS(2)傍観者は当事者に勝てない、新聞テレビがSNSに敗北した日
佐々木俊尚現在の視点
東日本大震災のときに感じた現場ジャーナリズムの限界、そして「ではその先にジャーナリストとしての当事者性っていったい何だろう」という根本的な難題について当時考えた論考です。インターネットの登場によって当事者性というものがもつ意味は大きく変わったと感じています。
震災でわかったソーシャルメディアのパワー(中編)
27日(日曜日)の朝、スポーツジムで走りながら「The サンデーNext」という日本テレビ系のワイドショーを見ていました。この日も震災報道一色です。この日紹介されていたのは、岩手県大船渡市の市立大船渡中学校の卒業式。死者・行方不明者が400人を超える同市ですが、大船渡中の生徒・教職員たちは全員が無事だったようです。106人の卒業生に卒業証書が手渡されました。
卒業式が終わり、卒業生たちはその足で学校内の体育館の避難所へ。そして全員で「ふるさと」などを被災者たちのために合唱しました。震災で大きな打撃を受けた街を思い出し、みな涙を流します。
―これはもちろん胸を打たれる光景であり、それに対して私はなにも言うべき言葉はありません。しかしこの映像がテレビで流れたことには、若干の違和感も感じました。そこにテレビ局側の「押しつけがましさ」のような演出を感じたからです。大げさなナレーション、涙を流している人たちへのカメラのクローズアップ、感情をかき立てようとする字幕。
もしこの映像が、そこにいた誰か―そこに偶然居合わせたボランティアや被災者、あるいは大船渡中の生徒、教師、保護者といった人たちが撮影し、YouTubeに流したものだったら、きっと私が受けた感覚はかなり異なるものだったに違いありません。
たぶんこの感覚は、本メルマガを読んでいらっしゃる方ならかなりの数の方が感覚的に同意していただけるのではないかと思います。実際、震災が起きて以降に私たちが感銘を受けたのは、被災した方たちが撮影したYouTubeやTwitterであり、現地に入ったボランティアや看護師や医師や自衛隊員たちのブログやTwitterでした。
ではこうした人たちの発信と、マスコミの発信とではいったい何が異なるのでしょうか?