大震災とSNS(1)未曾有の災害で日本人がTwitterに投稿したこと
佐々木俊尚現在の視点
2011年の東日本大震災が、日本でツイッターが本格的に普及する起爆剤になったというのは有名な話です。そのころまでは「暇つぶしのつぶやき」程度に思われていたのが、避難場所や避難経路、生活に必要なインフラの情報などが迅速に流通する場として注目されたのが大きかったのです。この記事は、そのころの空気感をリアルに描いているものです。
震災でわかったソーシャルメディアのパワー(前編)
今回の大震災をきっかけに、ソーシャルメディアの有効性が大きく注目されています。
携帯電話の音声通話も固定電話も通じない中で、ツイッターのメッセージが頼りだった人。あるいはテレビや新聞が扇情的な報道を繰り返す中で、ソーシャルメディア経由の信頼できる情報で落ち着きを取り戻した人。そんなケースが大量に起き、これがソーシャルメディアを情報流通基盤へと押し上げています。
もちろん、すべての場所でソーシャルメディアが使えたわけではありません。岩手県や宮城県などの津波被災地では基地局が壊滅し、またそれ以外の被災地でも停電によって基地局の機能が数時間後には失われました。屋外に設置されている基地局の多くは非常用の電源を持っていますが、これらは数時間から8時間程度しか持たないからです。
この被災地の問題については次回以降に述べますが、少なくとも東京ではソーシャルメディアは非常に有効な手段だったのは間違いありません。
個人的な経験でも、ツイッターは本当に役だちました。地震が起きたその瞬間、私は東京・赤坂の複合ビル施設「アークヒルズ」駐車場にいました。大型施設の地下駐車場はきわめて頑健に作られているのでしょう。実のところ地震の強さはさほど大きくは感じませんでした。駐車場入り口で駐車券を発券させながら、「何か揺れてるな?」ぐらいな印象。だからクルマを止めてからエレベーターが停止しているのに驚き、階段を上って二階のカラヤン広場まで来て、人々が多く屋外に出てきているのを見て始めて事態の大きさに気づかされたのです。
ここから自宅に連絡を取ろうとするが、私のiPhoneは、通話はまったくつながりませんでした。電子メールも送信できませんでした。このときに唯一使えたのが、Twitterだったのです。TwitetrのDMを使って、地震の十数分後には自宅にいた妻と連絡が取れ、無事を確認することができました。
この時は人と会っていて、しかも彼女は神奈川県西部に自宅があり、iPhoneのウェブで調べると、列車のほとんどはストップしていることがわかりました。しばらく様子を見ようとカフェで待機したのですが、被害報道はますます大きくなり、とうてい彼女が帰宅することはできないことがわかりました。
そこで彼女を自宅に泊めることにして、午後5時ごろにアークヒルズを出発。しかしすでに道路は激しく渋滞しています。青山通りは10分で数メートル進めるかどうか、という状況でした。さらに広い歩道を真っ黒に埋めるようにして帰宅の人たちが歩いており、以前見た火星人襲来がテーマの映画「宇宙戦争」のシーンのようでした。不謹慎な表現かもしれませんが、それほどまでに終末的な空気が漂っていたのです。
激しく渋滞する主要街道を避け、抜け道を通って約10キロ離れた目黒区の自宅に戻るのには2時間以上かかりました。
この間、車載のテレビは無残な被災地の空撮映像を流し続けていました。この映像と周囲の混乱だけに触れていたら、気持ちはかなり鬱になり、さらにはパニック状態になってしまっていたかもしれません。しかしツイッターによって妻と連絡を取り合い、さらに自分がいる場所の情報、そして自分の知人たちがどんなことを今考えて、いま何をしているのかを知ることができたのは、実に心強い援軍を得た気持ちでした。