経済がグローバル化しても、SNSはローカルであり続ける
佐々木俊尚現在の視点
グローバリゼーションは「マクドナルド化」のようにステレオタイプな「文化を均一化する」言説で語られていたことが多かったのですが、実はグローバリゼーションによってローカルな文化が花開きやすいという2010年の論考。この記事で書いたことは、いま振り返ってもまったく正しかったことはその後の10年間、たとえば日本のアニメ文化の流れを見てもわかると思います。
グローバルプラットフォームは文化をどう変えるか(中編)
前回、ニューヨークタイムズ紙のトーマス・フリードマンが『フラット化する世界』で書いた以下のような文章を紹介しました。
「中国では、コストの安さと障壁の低減が組み合わされて、文化的コンテンツを創造するプロセスに金がかからないようになり、その結果、普及が進んでいる。だから、グローバリゼーションのこのフラット化フェーズは激しいアメリカ化には結びつかないと、私は確信している。むしろ、ローカルな文化、芸術形式、様式、料理、文学、映像、首長のグローバル化が促進され、ローカルなコンテンツがグローバル化する」
フリードマンが言おうとしているのは、こういうことです。YouTubeやiTunesなど、コンテンツを共有するためのプラットフォームがグローバル化していく中で、アメリカに住んでいようが中国に住んでいようが、はたまたアフリカにいようが、安価にコンテンツを発信し、楽しみ、そして共有することは世界中のだれもが可能になっていく。そのためのコストはどんどん低下しているし、国ごとの違いはほとんど関係ないーー。
彼の主張は、従来から言われてきた「グローバル化」の懸念とは真っ向から対立しています。従来は「グローバル化によって世界中の文化が統合されてしまい、国ごと民族ごとの独自性が失われてしまう危険性がある」と言われてきたのですから。
しかし私はインターネット上の実体験からも、フリードマンの主張に全面的に賛成します。
従来は情報発信力が強い国の文化が、他の国の文化を浸蝕していました。世界に配給する能力を持つハリウッド映画、世界にCDを売りまくる力を持つアメリカのメジャーレーベル。そうしたパワーに対抗する情報発信手段を、アメリカ以外の国は持つことは非常に難しかったのです。
ところがインターネットのメディアが普及し、コストが低下していくと、「情報発信パワー」にはあまり意味がなくなってきます。そもそも情報発信がパワーたり得たのは、情報発信が絞られていたマスメディアの時代。市場原理でいえば、1990年代までのマスメディア時代には、
需要=情報を求める人々の欲求 > 供給=新聞・雑誌・テレビ・ラジオの情報発信
というように需要が供給を完全に上回っていて、情報に対する飢餓感さえありました。しかしインターネットが登場し、みんながブログやユーチューブやクチコミサイトなどで大量の情報を発信するようになると、あっというまにこのような飢餓感は消滅します。
需要=情報を求める人々の欲求 < 供給=新聞・雑誌・テレビ・ラジオに加えて、ネットから発信される無数の情報
情報量がおそらくは数百倍から数千倍にまで増え、供給が需要を完全に上回ってしまったのです。そのようなメディアの環境の中では、情報発信のパワーは相対的に失われてしまいます。
もちろん、良い映画や良い音楽、良い本、良い記事が価値を失うというわけではありません。そうした良質なコンテンツの価値は今も昔も、決して失われない。私たちはおそらくこれからもずっと、良い映画を見たいと望み、良い音楽を探し、そして良い小説や良い記事に心打たれて感動する人生を送っていくのです。
でもそうした良いコンテンツは、今までよりもずっと数は多くなっている。今まではプロフェッショナルが作った少数のコンテンツが、映画会社や出版社やメジャーレーベルや新聞社を経由して配信されるだけだったのですが、いまやYouTubeや音楽SNS、Twitterなんかを通じて、膨大な良質コンテンツが生み出されている。
これこそが、新たなインターネットのプラットフォームのパワーなのです。それは大手映画会社や大手新聞社やメジャーレーベルや大手出版社のパワーを減衰させていく。その途中には、さまざまな悲劇も起きるでしょう。
でも長い目で見れば、文化形成プロセスがそうやって変容していくことは、われわれの文化にとっては決して悪いことではありません。おそらく短期的な最大の問題は、良いコンテンツがきちんと良い消費者のもとへと送り込めないというようなミスマッチが起きてしまうことだと思われます。
話を戻しましょう。少しまとめます。いまやメディアのコンテンツ発信パワーは、弱まっています。その一方で、コンテンツの共有のプラットフォームがグローバル化し、巨大な基盤となってきています。そうなれば、従来のようにハリウッドやメジャーレーベルのコンテンツだけを世界の人々は受容させられるのではなく、そうではないオータナティブなコンテンツも消費することが可能になってきます。
世界中の発信者は、さまざまなコンテンツをグローバルに発信します。自分自身のローカルな記事。自分の民族に根ざした音楽や映画や書籍。自分の文化圏域に深く入り込んでいくような表現。そうしたコンテンツを、世界中の多くの人に向けて発信することが可能になるのです。そしてそうしたコンテンツは、同じ国や民族や地域の消費者だけでなく、そこに「共感」を抱くことのできる世界中の文化圏域の人たちに受容されていくことが可能になる。
つまりはグローバルなプラットフォームのうえで、より細分化された文化圏圏域のコンテンツが縦横無尽に流通していく世界。これは情報アクセスのパラダイムの、大きな転換です。
最近『彼女が消えた浜辺』というイランの中間層の人たちが登場人物の映画が日本でも公開されました。この映画について、沢木耕太郎さんは朝日新聞の連載コラム『銀の街から』でこう書いていました。
「登場人物は、これまでの多くのイラン映画と違って、都市の貧困層でもなく、田園地帯の農民でもない。世界中のどこにでもいるような、高等教育を受けた中間層の男女である。
もちろん、女性たちはチャドルで髪を隠している。また、エリが消えてから、混乱した彼らはさまざまな言葉を投げ掛け合い、その心の底に抱いている伝統的な価値観のようなものを露呈していくことになる。それでも、これが条件なしの『普通』の映画であるという印象は消えない」
沢木さんが言う「普通」というのが、「高等教育を受けた中間層」を指しているのは間違いありません。つまりイラン映画だろうがアメリカ映画だろうが、あるいは日本映画だろうが、同じような「高等教育を受けた中間層」を描き、そうした層の人たちが共感できる物語というのがいまや生まれてきているということです。
少しステレオタイプな見方になるかもしれませんが、極端な言い方をすれば、1980年代ぐらいまでは多くの日本人はアメリカ映画を見て白人社会にカッコ良さを感じて憧れを抱いていました。いっぽうでイランなどの第三世界の映画に対しては、自分たちの生活とは違う貧しく抑圧された生活に驚き、ある種の優越感とともに鑑賞していたことは否定できません。そして日本映画に出てくる貧乏くさい若者に自分自身を重ね合わせ、そこに泥臭いリアリティを感じていました。
ところがいまや国内でも都市と地方、富裕層と貧困層の文化の分断が進み、「高等教育を受けた都市の中間層」と「教育を受けていない地方の労働者層」ではまったく違う文化圏域を生成するようになってきています。身も蓋もないかもしれませんが、それが2010年の日本の現実なのです。
いや、ひょっとしたら「ひとつの国の国民が全員で同じ文化を共有する」という考え方そのものが、そもそもは幻想だったのかもしれません。そういう幻想が成り立っていたのは、実のところ太平洋戦争後のほんの一時期のことでしかありませんでした。
ひとつ証拠をあげましょう。